SAHHO
Science & Arts of Homeopathic Healimg Organization
東洋医学からホメオパシーへ
SAHHO主宰 はね せつこ |
長い旅をしたあとで、やっとホメオパシーの世界に出会いました |
薬剤師、漢方療法家、植物療法家、気功瞑想師、
そして、ホメオパス。
病院に勤務し西洋医学に携わりながらも東洋医学を学び、気功を修練していました。
内気功の熟練は奥が深く、気の世界が見せてくれるエネルギーワールドを自分の内的宇宙に積み重ねていく経験は大きな魅力でした。
自分の世界が内側から無限に広がっていく体験は東洋医学の度量の大きさを教えてくれるものでした。気功の修練はまだまだ続いていました。
そういうときに相次いで父と姉がガンになりました。
当時の私は気功を癒しの技として使えるほどの力量もなく、漢方以外には何もできませんでした。
二人は大学病院で手術を受けた後、その甲斐もなく苦しみながら旅立っていきました。
看病に携わっていた私も更年期で体調が悪い日が続きました。
動悸や不整脈、息苦しさ、虚脱感などの心臓を中心とした循環器系の症状でした。
それ以外にも不眠や欝症状が続き、全身に発疹が出たり脱力感で何日も寝込んだりしました。
フルタイムの仕事にも差し障りが出て生活そのものが成り立たない状況が続きました。
当然身近な漢方や中医学や外気功治療のお世話になりましたが、はかばかしくありませんでした。
西洋医学を学んでいたにもかかわらず、薬で症状を抑えるのにも抵抗があって、代替医療や精神世界の本を読み漁る日々を過ごしていました。
そんな時に出会ったのがホメオパシーでした。
鍼や気功、整体や手当てなどの代替医療の最後の切り札でした。
ホメオパシーは人間を、ボディ、マインド、スピリットの全体から捉えます。
そして人間を心身だけではなく霊的な存在と捉えます。
そんな見方に私は強く惹かれました。
それは父や姉の苦痛にゆがんだ終末の姿に決定的に欠けていたものでした。
彼らの苦しみは死への恐怖だけではなく、霊的な苦しみだったと気づいていた私は、背中を亡き父と姉に押されながら、見えない導師に導かれるように、ホメオパシーの学校に入りホメオパシーを学びはじめました。
その間、今度は母が以前患った大腸ガンの再発という事態に見舞われました。
医者通いの大好きな母でしたが、自分の夫と長女の最期を看取り、現代医学の終末医療のあり方に違和感を感じ取っていたらしく、大きな病院での過度な治療を断り、地域の病院で終末を迎えることになりました。
痛みをモルヒネでコントロールしつつ腸閉塞を懸念されながらの終末医療でした。
父や姉のようであってはいけない、母には安らかな死を迎えて欲しい、成仏して欲しい、その一心で私はレメディ(ホメオパシー薬)を使いました。
レメディは医者と僧侶のどちらの役割も果たすもので、宇宙のことわり通りに物事を運んでくれる乗り物です。
そしてなんの躊躇もなくそれができ、今生での生き死にに限定されることもありません。
時空を超えて奇跡的な癒しをもたらしてくれる、それがホメオパシーのレメディです。
私は母の魂をレメディという乗り物に祈るような気持ちで託しました。
母に使ったのは、3000種類もあるレメディのうち、ガン、終末、老人、などのピクチャー(症状像)を満たしてくれるたった2種類のレメディでした。
母の死はとても穏やかでした。あれほど薬害で腕がはれ上がり自力では動かせなかった母でしたが、おのずと胸の上で手を組んで亡くなりました。
それは天に召される人の神々しいまでの祈りの形でした。
大切な人を相次いで3人もガンで失ったのですが、母にはホメオパシーが間に合ったようです。
私自身のひどい症状もホメオパシーの哲学を学びながらレメディを使ううちに少しずつ消えていきました。
そして今、私はホメオパスになりました。
縁があって私に出会って下さる方々の大切な人生に、ホメオパシーの旅をお届けする、その郵便配達人のような仕事に意気を感じながら、広大なホメオパシーの庭に、芥子粒のように小さな種をまき始めました。
光の扉を押して行き還る
哀しいもののかくれんぼ
もういいかい、まあだだよ
もういいかい、もういいよ
もういいかい、といわなくても、
もういいんだよ
その光の扉をおして お入り下さい
こころの言葉で語り始める あなたは もう 光の子
ホメオパシーの庭に ようこそ!
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